ラブレター



秋がすぐそこに近づいてきたある日の、夕暮れ時だった。

いつも通り僕は図書当番をしながら読書をしていた。鳴きわめいていたひぐらしの声がふとやんだのに気付いて、ページを繰る手を止めて伸びをする、と、誰も居ない図書室の隅でもそもそ先生がとひとり何か書き物をしているのに気付いた。いつの間に。また趣味の文章でも書いているのかな、と思ってそっと声をかけた。
「先生、」
「……ん、久藤くん? あ、わ、」
先生がいつになく驚いた様子で立ち上がって原稿用紙をがさ、とまとめた。
「気付きませんでした。いつからいらっしゃったんですか」
「あ、……ああ、いや、一時間ほど前から、居ましたよ」
言いながら妙に落ち着かない様子を見せるから、不審に思って手元の升目にちらりと目線をやると、
「や、これはなんでも、」
着流しの袖で慌てて隠した、その隙間から紺色の整った文字が覗いていた。そこに書かれていたことば、
―――久藤くんへ。
見間違いだ、と思った。けれど動きの止まった僕の視線を辿った先生が、あ、という顔をして今度は原稿用紙を裏返したから、それはきっと、……そういうことなのだ。
「だめです、これは」
「そんなことを言われても、気になります」
「……じゃあ、」
しぶしぶといった調子で先生が言った。―――読み返すので、少し待ってください。
見ちゃだめですと口をとがらせるから、向かいに座って、読みすすめる先生の頬が朱を刷いたように染まっていくのを見ていた。

ひぐらしがまた遠くでけたたましく鳴く。

最後まで読み終えて、先生はぎゅうと紙を握って、やっぱり、と言った。
「……やっぱりだめです、こんなもの」
「どうしてですか、先生」
「ぜったいにだめです」
「じゃあ、その僕の名前は、……何の意味もないんですか」
わざと、すこし悲しむふりをして尋ねた。先生がそれに弱いと知ってそうする自分はずるいな、と思ったけれど、あの静謐な文字で綴られた自分の名前の意味を、その続きを、知らずにはいられなかった。
「その、……いつだって死ねるように、と、……あなたへの遺書を書いていたんです。でも」
躊躇いながら口を開いた十ほども年上の先生が、ふいに幼く見えた。少し拗ねたような、言い訳のような台詞だった。
目を伏せてゆっくりと言葉を選びながら、言った。
「これでは、まるで、―――ただのラブレターになってしまいました」

その単語を脳が理解するのに一瞬の間があった。先生が俯いていたたまれないように重ねて言う、
「や、最初はさよならのはずだったんです、でも書けば書くほど、……すみません今どきそんなもの流行らな」
「先生」
それを遮って呼びかけた。
「それならばなお、」
どうしても、読まなければと思った。
「僕に、読ませて下さい。その、……ラブレターを」
そっとその紙を掴む手をほどくと先生はもう抵抗しなかった。
慈しむように、丁寧に読んだ。―――久藤くんへ。
それはとても美しい文字で綴られた、夢見がちで拙い、真摯な愛の手紙だった。

「ねえ、先生」
こっそりよいことをしたのがばれた子供のような、ばつの悪い顔で彼がこちらを向く。インク染みのついた、華奢なその手を握って囁いた。
「今度は、僕が書きますよ」
「……え、」
「先生への、ラブレターを」

いつの間にかひぐらしの声は止んで、ひっそりと夜を告げる風が吹いていた。


2008.07.16