エナメル
それはもう朝から憂鬱だった。
「どうした? 冴えない顔して。ああ、いつものことか」
憂鬱で仕方ない私の元を訪れて兄は開口一番そう言った。
「なんでもないですよ、何しに来たんですかこんな昼間から」
そうだ、いつも兄が来るのは夜にきまっていた。今なぜ私が手が空いているのかというとそれは、昼休みだというだけだ。そして私が居るのは職員室だ。
「何しにとは失礼だな、これを貰いに来たんだよ」
ぴらぴらと見せたのはうちの学校の健康診断についてのプリントだった。そういえば数少ない兄の仕事のうちにはこれも含まれていた。ああ、そんな時期か。
「ついでにお前に差し入れでもしてやろうか、と思ったんだが」
「珍しいですね、兄さんがそんな殊勝なことをするなんて」
「思っただけだ」
兄は片手にぶらさげた和菓子の袋をゆらゆらと揺らしてたくらみ顔でにやりと笑った。
「やっぱり今のお前にはやれんな」
「またそういう……なに、っ!」
ぎゅ、と突然右頬をつねられて、びっくりして思い切り噛み締めてしまって痛みに言葉も出なかった。思わず涙目になって睨むと兄はからからと楽しげに言った。
「痛いなら痛いって言えばいいものを」
「なっ、……」
にや、と人の悪い顔をして笑う。
だから言いたくなかったのだ。言えば間違いなくつつくと解っていたから。
「右の奥歯、虫歯なんだろう? 早く医者行かないと酷いことになるぞ」
「なんで、」
「暗い顔して頬押さえてたらそりゃあわかるさ」
「……」
思わず押さえていた右手を離した。
「残念ながらうちは歯科は専門外なんだ、お生憎様」
そう言って私の頭をくしゃっと撫でて、渋い顔をした私をつくつくと笑って、差し入れは治ってからなー、じゃあな、と手を振って兄は軽快に去って行った。不意打ちで触れられて一瞬痛みが消えたのはなかったことにして、この角眼鏡! と心の中で毒づいてやった。
2008.07.28